無知の壁 「自分」について脳と仏教から考える
解剖学者の養老孟司氏とスリランカ出身の僧侶、アルボムッレ・スマナサーラ長老が行った「自分」について対談をまとめています。聞き手は釈徹宗氏です。
【著者プロフィール】
養老孟司 (ようろう・たけし)
解剖学者。1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。1995年に東京大学医学部教授を退官し、現在、東京大学名誉教授。著書『バカの壁』(新潮新書)は2003年のベストセラー第1位となった。アルボムッレ・スマナサーラ (Alubomulle Sumanasara)
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年、スリランカ生まれ。13歳で出家得度。国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭をとったのち、1980年に来日。現在、(宗)日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事。〈聞き手〉釈 徹宗 (しゃく・てっしゅう)
僧侶。宗教学者。1961年、大阪府生まれ。大阪府立大学大学院人間文化研究科博士課程修了。専門は宗教思想、比較宗教、人間学。現在、相愛大学人文学部教授、浄土真宗本願寺派如来寺住職、NPO法人リライフ代表。
この本は偶然読むことにしたのですが、先日読書感想をまとめた【読書感想】坂口恭平著 『現実脱出論』とつながる部分が多々あり、とても不思議な縁を感じました。
『現実脱出論』の中で坂口氏が語る「現実」とは、本書で語られる「近代自我」とイコールなのではないか。では「現実脱出」とは仏教でいう「涅槃」のことではないのか。というように考えながら興味深く読み進めることができました。
本書は科学的な側面と仏教的な側面から同じテーマを語りながら、両面から意見が一致していきます。その中で個人的に面白いなと感じたことをいくつか紹介します。
脳みそが動くのが先で思うのは後
常識的には「喉が渇いたと思ったから水を飲む」と考えますが、実際は思うのは後という話です。つまり、脳が水を飲むほうに動き出した後に「水が飲みたい」という意識が起こるということです。行動させるには脳を動かす必要があり、思いだけでは限界があるようです。
そうすると、職場の上司が部下を無理やり動かしても意味が無いということが分かります。「仕事がしたい」「成績を上げたい」と脳が動くように仕向けないといけないですね。このことは普通に考えれば分かります。好きな人を振り向かせようと「俺を好きになれ!」って言いませんからね。好きになってもらえるように食事に誘ったり、プレゼントを贈ったりして相手の脳を自分の方に動かそうと努力しますね。部下に頭ごなしに「とにかくやれ!」と怒鳴ったとしても効果はほとんど無さそうです。しかも言われた部下の脳は「仕事がしたくない」と動いてそうな気がします。
仏教の五戒にある「殺生するなかれ」
仏教は「殺生するなかれ」と言いますが、これは世界を平和にする目的で殺生戒を決めたわけではないそうです。
生き物は「生きていきたい」という渇愛と、「死にたくない」という恐怖感、2つの本能があります。本能のまま生きれば自分が敵だと思う生命を殺したいし、生きるためには栄養になると思う生命を食べてしまう。殺生といえば「やるわけがない」と考えがちですが、人間はいとも簡単にほかの生命を殺す衝動が起こるそうです。仏教は修行者に「この本能と闘って勝ちなさい」と言っているのです。本能に打ち勝って人格を向上させるために意識コントロールするのが目的なんですね。
自分のことは贔屓している
脳には「空間定位の領野」と呼ばれる場所があり、ここの働きによって外出しても家に帰ってくることができるそうです。いわゆるここに地図があるんですね。さらに、ここは自分の範囲も決める働きもしており、脳出血などの病気でここの働きが壊れた患者は自分の範囲がどんどん広がって外界との境界が無くなってしまいます。境界が無いので最後には世界と自分が一致します。このことは至福の体験だと語っています。
なぜ至福かというと、自分のことは皆贔屓しているから。例えば「口の中にある唾は汚くないのに、いったん外に出すと再び口に戻すのは汚く感じる」という具合です。自分の外に出るともう贔屓できません。つまり、自分と世界が一致すれば全て贔屓できますから、これはハッピーだというわけです。
車を不用意に触ると、殺されそうな勢いで怒る人がいますが、そんな人は車までが自分になっているという話はなるほどな~と思いました。
他にも面白い話が盛りだくさんでした。オススメです。