『吉田松陰と松下村塾の志士100話』
吉田松陰と松下村塾の志士にまつわる100話がバラバラに書かれているわけではなく、松蔭誕生~死、そして明治維新まで歴史の流れに沿って読みやすくまとめられています。
本を開くと巻頭に幕末の城下図(住宅地図)があり、そこには松下村塾をはじめ、四天王と称された高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎(稔麿)、入江杉蔵(九一)を含んだ主な塾生の住居が示されています。
明治維新を支えた志士たちが、この限られた場所にこれだけの人数生まれたことに先ず驚かされました。
知らなかった意外な事実
この本を読んで松陰や松下村塾の志士に対して自分が持っていたイメージと違う点がいくつかありました。
黒船に乗り込んだのは、面目をほどこすため?
ペリーが浦賀に再来した際、松陰は無謀にも黒船に乗り込みますが、密航計画は頓挫して牢獄に入れられます。
その時の気持ちを「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」と男前な一句を詠んでいますが、実は松陰はアメリカ密航計画の前年に、佐久間象山から実行役に指名されたロシア密航を失敗しています。この失敗がよほど恥ずかしい記憶に残っていたのだろうと著者は書いています。
象山に黙って密航を実行することで、せめてもの面目を施そうと考えていたようです。
松蔭の致命的な欠点
松陰は井伊直弼の配下として安政の大獄を推し進めた老中の間部詮勝暗殺計画を立てますが、あろうことか武器弾薬を調達するため、その計画を藩の上層部に打ち明けます。
当然ですが、藩は松陰を危険人物として、アメリカ密航の罪で投獄されていた獄舎に再び入獄します。
また、安政の大獄の最初の逮捕者である梅田雲浜との関係について疑われた松陰は江戸に呼び出されますが、終始自分のペースで取り調べが進むことに気を良くし、日本が今後どのような道を進むべきか蕩々と語り始めます。そして何を血迷ったのか、自ら間部詮勝暗殺計画を喋ってしまい、墓穴を掘ります。結局このことにより、死罪となります。
辞世の歌 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」もこれまた男前ですが、「正義は必ず理解される」という思い込みから生まれる松陰の言動には塾生達もかなり振り回されたようです。この致命的な欠点により死期を早めてしまいました。
高杉晋作が奇兵隊の総督だったのはわずか三ヶ月
高杉晋作は長州藩から任命された朝廷との交渉役を「幕府を討ち滅ぼす以外は、私は力を出すことはできない」と言って拒否し、10年の暇を得ていまいた。
その時、長州藩主・毛利慶親はアメリカとフランスの軍艦にやられ、壊滅状態の軍備を立て直すために高杉を頼ります。高杉は慶親から許可を得て、すぐに奇兵隊を組織します。
しかし、外国船はその後、攻めてこなかったんですね。隊士たちはエネルギーを持て余し、ついに藩の正規兵である先鋒隊と奇兵隊が衝突してしまいました。
隊士たちの暴走を止められなかった高杉は奇兵隊総督を三ヶ月で罷免されてしまいます。
松陰亡き後も、松下村塾の塾生たちは師が命を賭けて示した大和魂を受け継ぎ幕府打倒を成し遂げますが、師と同様に若くして命を落としています。
吉田松陰 享年29歳
松下村塾の四天王
吉田栄太郎(稔麿) 享年24歳
久坂玄瑞 享年25歳
入江杉蔵(九一) 享年28歳
高杉晋作 享年27歳