ジョギングをしていたら、木に覆われた安徳台の一部が伐採されて、耕作者以外立ち入り禁止になっている場所が見えていました。
伐採した場所から上の登れる階段でも作るのだろうかと勘ぐったりしてますが、真相は分かりません。
写真ではただの小高い山に見えますが、かつてはこの地の発掘調査により弥生時代中期の大型住居や首長の墓も見つかっています。そして台地上には魏志倭人伝に登場する奴国を支えた大集落があったというロマン溢れる場所なんです。
そして安徳台には、安徳天皇を祭神とする安徳宮があるんですよね。
安徳宮の由来
安徳天皇は高倉天皇と平清盛の娘徳子(建礼門院)との間に第一皇子として誕生され、第八十一代天皇に即位されましたが、時を経ずして源平争乱が起こり、寿永二年(1183)都を追われた平氏一門と共に筑紫に難を逃れられました。この頃、筑紫の豪族である原田種直は岩戸の庄(現在の安徳台)に館を構えていました。種直は右大臣平重盛の養女の婿で、平氏の信頼厚く、太宰府の少弐という役職に就き権勢を振るっていました。天皇が筑紫に下られた時は、大宰府に程近い種直の館が仮の御所に当てられることになったのです。このことが後に「安徳」の地名の起こりと伝えられています。このあと天皇は平氏一門と共に四国の屋島に渡られ、再起を計られますが、ついに寿永四年(1185)陰暦三月二十四日、壇ノ浦で源義経の軍に敗れ、平氏の滅亡の時、祖母の二位尼(清盛の妻時子)に抱かれ入水されました。(平家物語・郷土誌那珂川より)
この安徳地区では、僅か八歳の短いご生涯を終えられた幼少の安徳帝を悼み、祠を奉ったのがこの地の「安徳宮」の起源と伝えられ、また、新暦の四月二十四日のご命日には「天皇さまごもり」が現在に至るまで綿々と引き継がれて安徳区民により執り行われています。
那珂川町内には、裂田の溝など数多くの史跡が存在するので、総合的に整備されるといいなと思いますね。